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シャカムニ・ブッダのことば 中村 元訳『ダンマ・パダ』183 すべて悪しきことをなさず、 善いことを行ない、 自己の心を浄めること。 これが諸々のブッダの教え、 すなわち仏教である。 *注:「もろもろのブッダ」とは、お釈迦様誕生以前に現れたとされている七人のブッダのことです。 これは東アジア諸国の仏教徒の間で、あまねく知られている教えで、中国ではこれを、「 はじめに仏教とは何か? 端的に言えば、それはシャカムニ・ブッダ(通称:お釈迦様)の教えのことです。 従って、天台宗開祖・最澄の教えでも、真言宗開祖・空海の教えでもありません。もちろん、浄土宗開祖・法然上人でも、浄土真宗宗祖・親鸞聖人でも、臨済宗開祖・栄西禅師でも、曹洞宗開祖・道元禅師でも、また日蓮宗開祖・日蓮聖人の教えでもありません。 これらの聖者たちは、お釈迦様の教えの中から、「ブッダに成る」ための修行の一行をもって宗派を興した、いわばお釈迦様の高弟です。 |
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また、仏教は金持ちになる教えでも、神通力をつける教えでもありません。仏教とは、すべてにおいて悪しきことなさず、良いことを行なうこと。そして、自己の心を浄め、 では、ブッダとは? ブッダとは何か。ブッダとは「真理を悟って迷いから解脱し、涅槃の境地にいながらにして、無量なる慈しみと悲れみに溢れた聖なる人」であります。決して、悟っただけではブッダではありません。これが、仏教におけるブッダです。 しかし、仏教が誕生する以前のブッダは、宗教一般において、修行の結果、手足に法輪の模様がある、身体が金色である、歯が40本ある、舌が大きく長い、眉の間に白毫があるなどの三十二相が現れた覚者=悟った人を言い、従って、それは固有名詞ではなく普通名詞でした。 それゆえ、ブッダはバラモン教の聖典『ウパニシャット』や、仏教と同時代に誕生したジャイナ教にも多数登場しています。 けれど、お釈迦様を信奉する人たちは、「ブッダとは、お釈迦様のように、真理を悟り、迷いから解脱し、涅槃の境地いながらにして、慈しみと悲れみにあふれた聖なる人」であるとして、他の覚者たちを否定し、お釈迦様だけを「ゴータマ・ブッダ」、「シャカ・ムニ・ブッダ」と呼びました。ちなみに、ゴータマとは「聖なる牛」、シャカ・ムニは「シャカ族の聖者」という意味です。 仏教という呼び名の誕生 お釈迦様の教えを、人々は古代俗語のパーリ語で「ダンミー・カター(ブッダが説いた法の意味)」、また古代サンスクリット語(梵語)で「ブッダ・ヴァチャナ(ブッダの教えの意味)」と呼びました。 こうして紀元前5世紀頃、インドで誕生した仏教が、やがて約5百年という長い年月を経て中国に伝来しました。 中国では、まず経典を翻訳するにあたりブッダの訳語に表音で「 しかし、次第にお釈迦様の教えがわかるにつれて、「浮図」「浮屠」では相応しくないとなり、いろいろと検討した結果、表音と表意をあわせた「 これについて、我が国の漢字学者で文化勲章を受章されたされた諸橋徹次博士(1883〜1982)は、「佛の文字のにんべんは人を表し、弗は非の略字で否定を表す。従って、佛は人でありなが人に非ず。つまり、ブッダは人間をはるかに超越したものであるして、この文字が充てられた。ちなみに『沸』は、水が沸騰した気体を表し、水でありながら水を超越し、水でないものを表している。」と、解説しています。 こうして、シャカムニ・ブッダは『釈迦牟尼佛陀』、アミター・ブッダは『阿弥陀佛陀』となりました。 しかし、経典の中の詩歌ガータ(漢訳:偈)を、中国古来の そこで、五言詩では釈迦牟尼佛陀の陀を略して『釈迦牟尼佛』、四言詩では阿弥陀佛陀の陀を略して『阿弥陀佛』としました。ここに佛陀の『陀』を略した『 と、同時に、古代俗語パーリ語のダンミー・カター(ブッダが説いた法の意味)、また古代サンスクリット語のブッダ・ヴァチャナ(ブッダの教えの意味)は、道教思想で神聖な『 そして、この『佛道』が我が国に伝来し、我が国でも仏教は仏道でした。我が国で『仏教』と呼ぶようになったのは、明治時代からです。これについて詳しくは、本ホームページの「宗教とは」をご参照願います。 『ほとけ』という呼び名の由来。 中国で『 では、なぜ訓読みで『ほとけ』となったか? それについては、言語学者の間につぎの5説があります。 (ア)『 (イ)『 (ウ)仏教が我が国に伝来したとき、たまたま熱病の「ほとほりけ」が流行していたために、 それが転化してつけられた(ほとほりけ転化説)。 (エ)煩悩を解き放った存在を表した『ほどけ』からきた(ほどけ説)。 (オ)『弗』は音符の弗で、それには見えにくいという意があるため、そこで、人にはよく見えない 「ほのか」という意をもって、『 また、我が国では死んだ人をみな『佛』と呼びます。これは、日本だけのことです。 それについてはつぎの2説があります。 (ア)死者を (イ)日本古来の神道では、人間は死後、そのまま神であることから、仏教の「佛」も、 神道の「神」も同じとみなして人間も死後はそのまま「ほとけ」に成るとなった。 しかし、仏教では人は死ぬと皆「ほとけ」、すなわち「ブッダ」には成りません。ちなみに、お釈迦様の場合は人々のいろいろな苦しみを見て、その苦しみから人々を救うために真理を求め出家し、難行苦行の末にピッパラ樹の下で禅定し真理を悟り、この世で無量なる慈しみと悲れみに溢れた聖なるブッダに成られたのです。 そして、ブッダになられたお釈迦様の説かれたことは「すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄め、己のように聖なるブッダに成れ。ならばすべての苦しみから離れて、永遠に心豊かに、心安らかに生きられる」ということでした。 つまり、善いことをしなければ、ブッダにはなれないのです。そこで「仏教とは聖なるブッダ、すなわち聖なる仏に成る教えである」ともします。 絶対真理 お釈迦様が悟った真理をパーリ語ではダンマ(dhamma)、サンスクリット語(梵語)ではダルマ(darma)といいます。これを中国では意訳して「法」としました。ダンマもダルマも、「真理」・「法則」・「正義」・「行為の規範」・「教え」などを包括した言葉で、お釈迦様の説かれた教えのすべてを指します。 お釈迦様は、出家して6年間に亘り、「宇宙の真理」、「人間とは何か」、また「人間はどう生きて、どう死ぬべきか」の道理を求め、難行苦行を重ねました。けれど、その答えを見つけることはできませんでした。 そこで、お釈迦様は苦行でやせ衰えた身体をナイランジャー河で沐浴したのちに、ピッパラ樹の下で坐禅をし、バラモン教が説く万物の創造主・世界の支配者・神々の中の神、ブラフマー(漢訳・梵天)と
ブラフマーよ
ブラフマーよ、 そこで、この縁起の理法に気づいたお釈迦様は「縁起したもの、すなわち縁によって生じたもの、形成されたものはすべて縁によって滅する。すなわち永遠不変なものはない。無常である」という『諸行無常』の真理を発見しました。 と同時に、「縁起したもの、すなわち縁によって生じたもの、形成されたものはすべて諸行無常ゆえに実体がない。すなわち『空』である」という『諸法無我』の真理を発見しました。 今、現代物理学は「真理とは普遍的法則である」と定義しています。ならば、お釈迦様が発見した、『縁起の理法』、『諸行無常』、『諸法無我=空』の真理は、その答えであります。 こうして宇宙の真理を悟ったお釈迦様は、続いて「人間はどう生き、どう死ぬべきか」の道理を探求しました。それを『四諦聖八正道』といいます。これはまた今、現代科学が追及する「世界と人類の根本原理」への答えでもあります。それは、つぎのとおりです。 一、人間を含め形成されたものはすべて無常、無我であるゆえに一切が『苦』である。 すなわち、一切が苦であるという真理、これを『 二、その苦の発生は、真理を知らないことに因る無明・迷い・執着・貪り・怒りの集合に 因って起こる。すなわち、苦の起こりの真理。これを『 三、その苦を滅した境地はニルヴァーナ(漢訳:涅槃)である。 すなわち、苦を滅した境地の真理、これを『 四、そのニルヴァーナ(涅槃)に至るには『聖なる八つの正道』を完成しなければならない。 すなわち、涅槃に至る道(実践・方法)の真理。これを『 その『聖なる八つの正道』はつぎのとおりです。 @ A B C D E F G 以上の『縁起の理法』『諸行無常』『諸法無我=空』、それに『四諦聖八正道』が仏教における絶対真理です。 これは、ニュートンが木から落ちるリンゴを見て『引力の法則』を発見したように、またアインシュタインが光を見て『相対性理論』に気づいたように、お釈迦様は自らの修行体験を通して、ピッパラ樹(菩提樹)の下で禅定して発見した、宇宙の万物の普遍的な真理であり、また人間がどう生きてどう死ぬべきかの崇高な道徳であります。 まとめ 宗教学者、並びに仏教学者たちは仏教の特色、また仏教の根本をつぎのように述べています。
以上、仏教は金持ちになる教えでも、神通力をつける教えでもありません。それは日常の生活の中で、人々の幸せ、世界の平和を祈りながら、六波羅蜜の実践に努め、清く、正しく、また強く、明るく、尊厳を持って生きることの教えで、それにより、心身共に健康に、安らかに、幸せに生きることの教えなのであります。 合掌
半僧半俗の仏教伝道僧 横手昭道 |
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