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仏教の「聖」は清く澄んでいること、
「正」は「聖」でなければ、「正」ではない


 広辞苑は、「聖とは知徳が最もすぐれ、あまねく事理に通じていること。またその人。ひじり。その道に最も傑出した人のこと」。また「正とは、ただしいこと。ただすこと。整っているさま。本すじのもの。」と解説しています。他の辞書もほぼ、同様です。 
 しかし、何が聖か。何が正かは民族によって、国によって、宗教によって違います。

 キリスト教、イスラム教は『神的なもの』、そして『至善』が『聖』です。『神的なもの』とは人間の能力を超越したもの、超自然的なもの、神秘的なもののことです。
 『至善』とは、この上ない善、最高善のことです。これをもとに聖書、聖霊、聖人、聖フランシスコ、聖戦などの呼び名があります。
 そして『正』は、神の正義、すなわち神の真理を実践することです。「神の真理」とは、『神の言葉』のことです。
 しかしキリスト教、イスラム教ではその『神の言葉』の解釈が宗派によって違います。そこに大きな問題があります。先ず、『神の言葉』は絶対であるために神を信じない者、すなわち異教徒を寛容せずに罰します。且つ、『神の言葉』であるために自派の解釈が絶対で、他派と妥協するわけにはいきません。それが正義です。  そして、キリスト教では人間の本性は「罪びと」です。つまり、「人は生まれながらに罪を犯す者、神にそむく者、神に逆らう者、神を恐れない者、神の律法を犯す者」ということです。
それを人間の「原罪」と呼び、それが人間の苦しみ、悲しみのもとであるとします。
 そこで、神の真理=神の言葉、神の愛を信じることで、その罪が神によって許され、神のみもと天国に救われる。これがキリスト教です。

 対し、仏教は、「こころ」と「ことば」と「行ない」が清浄であること、清く澄んでいることが『聖』です。しかも、その『聖』は正でなければ、『聖』でありません。なぜなら、人は『正』に執らわれ『正』を掲げて争い、戦い、時には人を殺し、戦争をするからです。ちなみに六道の一つ、修羅界は正義を主張し、互いが常に戦い、争い、殺し合いが絶えない世界です。
 それゆえその『正』は清く澄んだ心から生まれた『善』でなければ『正』ではありません。そして、その善は『至善』ではありません。相対的なものです。だから『聖なる八正道』は『中道』なのです。
 これをもとに、清く澄んだ心で人を苦しみから救う不思議な力を持っている人を「聖観音」「聖人(しょうにん)」「聖(ひじり)」と呼びます。


お釈迦さまの教え、人間の本性は「聖」

 前述したように、キリスト教は人間の本性は「罪びと」です。対し、仏教は人間の本性を「善」でも「悪」でもなく、清浄すなわち『聖』であるとします。
 これを『自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)』といいます。その清く澄んだ心が後天的に、環境によって、煩悩によって汚れていく。これを『客塵煩悩(きゃくじんぼんのう)』といいます。
 そしてこの本性に気づき、私たちは聖なる八つの正道(聖八正道)に励み、煩悩(汚れ)から離れ、本来の清らかに澄んだ心の人間と成らなければならないとします。これを『離垢清浄(りくしょうじょう)』といいます。
 従って、お釈迦さまが説く『聖なる八つの正道』はユダヤ教、キリスト教、イスラム教のように、「私は救い主である。私を信じ、私に従え。ならば救われる。」ではありません。また、神の命により「何々をせよ」、「してはならない」でもありません。  人間の本性は清浄すなわち聖である。このことに気づいて神に頼らず、自分の力で人間の本性である聖に至れ。これがお釈迦さまの教えです。



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