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シャカムニ・ブッダのことば

中村 元訳『ウダーナヴヴァルガ』第1章無常より選択

悪いことをしたならば、人は憂える。
ずっと昔にしたこととか、遠いところでしたことであっても
秘密のうちにしたことでも、人は憂える。
その報いがあるのだから、人は憂える。
その報いを受けて、地獄などにおもむき、さらに苦しむ。

善いことをしたならば、人は快く楽しむ。
ずっと昔にしたこととか、遠いところでしたことであっても
        人に知られずにしたことでも、人は快く楽しむ。
        その果報を受けて、
        幸あるところ浄土におもむき、さらに快く楽しむ。         

輪廻転生はお釈迦さまの教えではない

 仏教にはインチキな運命論、宿命論があると、我が国の近代的理性を持つ人たちから貶されていえる教義、それは「人間の体内に存在する物理的霊魂が、現世は前世の「業」に因って、来世は現世の「業」によって、前世・現世・来世の三世を永遠に輪廻し転生する」いう教義です。
でも、これはお釈迦様の教えではありません。バラモン教(現在のヒンズー教)の教えです。
ではなぜ、それが日本の仏教、すなわち大乗仏教の教義になったか?それについては後述します。

 「業」はサンスクリット語カルマの意訳で、カルマの本来の意味は「行ない」「行為」です。それをバラモン教は「神々の輪廻転生をもたらす力」、「神々による刑罰」と意味づけて宗教的に引用し、そして輪廻転生と結びつけ、カーストの身分制を確立しました。
 なお、中国語「業」には善悪の報いをひき起こす行ないと、前世における行ないを宿命論的に指す意味があるためカルマの訳語となっています。

 「輪廻転生」はサンスクリット語サンサーラの意訳で、サンサーラは「流れる」「転位する」「移り変わる」「流転する」の意味です。
 そこで、バラモン教は人間の生命の究極である物理的霊魂(アートマン)が、現世は前世の「業」に因って、来世は現世の「業」によって、天界・阿修羅界・人間界・畜生界・餓鬼界・地獄界の六道を、それぞれのカーストのまま宿命として永遠に輪廻転生し続けるとし、その呼び名にしました。
 カーストとは最上位がバラモン教の司祭階級バラモン、第二位が士族・王侯階級クシャトリヤ、第三位が庶民階級ヴァイシャ、第四位が隷民(労働者)階級シュードラの四階級を指し、このカーストの下に最下級チャンダーラ(不可触賤民)がいる身分制です。


お釈迦さまの教え、人は皆、平等

 そもそも、お釈迦さまが出家した事由は人々を苦しみから救う道を発見するためでした。その人々の苦しみの中にはバラモン教の教え「輪廻転生」もありました。
 そして6年におよぶ難行苦行と思索を重ねた後、ピッパラ樹の下で禅定して発見したのは『縁起の理法』、『諸行無常』、『諸法無我=空』の絶対真理と、「天界」「修羅界」「人間界」「畜生界」「餓鬼界」「地獄界」の六道の他に、永遠に輪廻転生を二度と繰り返すことがない、聖なるブッダたちが住む不思議な世界『ニルバーナ(涅槃)の世界=永久に幸なる世界(漢訳・極楽浄土)』でした。
 そこで、お釈迦さまは『縁起の理法』の真理をもとに次のように説きました。

    人は因縁によって生まれ、因縁によって老い、因縁によって死ぬのである。
    生という因縁があるから老いがあり、生という因縁があるから死がある。
    業(カルマ)は呪いのように一生ついて回るものではない。

    人は生まれによって賤しい人になるのではない。
    人は生まれによってバラモンになるのではない。
    行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。

 今ある出来事も、人生も、前世の業によるものではない。また、それは神による刑罰でも祝福でもない。すべてそのときどきの縁に因る。
 そしてお釈迦さまは、バラモン教が説く運命論的、宿命論的「業」の教えを否定し、弟子となったバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラとチャダーラも、女性も教団内ではすべて平等にしました。
 これは世界初の平等思想と言われています。


お釈迦様の教え、 実存的「業」

 では、人間の運命は神によるものではない。神々の意志、神々の刑罰でもないとするならば、誰が人間の悪事を裁き、誰が罰するのか?
 人々の問いに、お釈迦さまは次のように答えました。

    (人は)みずから悪をなすならば、みずから汚れ、
     みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。
     浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。
     人は他人を浄めることはできない。
中村 元訳『ダンマパダ』165


     その報いは、わたしには来ないだろうと思って悪を軽んずるな
     水が一滴ずつ滴(したた)り落ちるならば、水瓶でもみたされる
     愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば
     やがてわざわいにみたされる
     その報いは、わたしには来ないだろうと思って善を軽んずるな
     水が一滴ずつしたたり落ちるならば、水瓶でもみたされる
     気をつけている(賢い)人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば
     やがて福徳にみたされる。
中村 元訳『ダンマパダ』121、122


     善いことをなす者はこの世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する
     「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、
     幸(さち)あるところ(浄土の世界)におもむいてさらに喜ぶ

     悪いことをなす者はこの世で悔いて悩み、来世でも悔いて悩み
     ふたつのところで悔いて悩む

     「わたくしは悪いことをしました」といって、悔いて悩み
     地獄など苦難のところにおもむいて、罪のむくいを受けてさらに悩む
中村 元訳『ダンマパダ』17・18


 自分の運命、人世は前世から引き継がれた「業」ではない。もちろん神の罰でもなく、祝福でもない。私たちは『縁』に因ってこの世に誕生し、そして人生は自分の行為(業)に因って創られると。すなわち、これがお釈迦さまが説く実存的「業」の法則です。

 しかし、現実は社会的環境、自然的環境によって、自分の力ではどうしようも無い苦難な人生を強いられている人もいます。
 そして、何も悪いことをしていなくとも、地震や津波や台風などの天災地変に因る災難に逢う人もいます。
また、他人の過失などに因る不慮の災難や、通り魔、強盗など、悪人に因る災難に遇う人もいます。
 一方では、たくさんの人を傷つけ、苦しめ、悲しませているにも拘わらず、また悪事を働いているにも拘わらず、誰もがうらやむような豊かな生活をしている者もいます。
 つまり、実社会における「因果」には不条理、不合理が数限りなくあります。この世では、すべてが「善因善果」「悪因悪果」となっていません。
 もちろん、お釈迦様はこのような不条理、不合理を見据えていました。そこでお釈迦さまは次のように説かれました。

     まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある
     しかし善の報いが熟したときには、善人は幸福に遇う
     まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある
     しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う
中村 元訳(岩波書店)『ダンマパダ』119、120


     善い行いのことわりを実行せよ、悪い行いのことわりを実行するな。
     ことわりに従って行う人は、この世でもあの世でも安楽に臥す

     奮い起てよ、怠けてはならぬ、善い行いのことわりを実行せよ
     ことわりに従って行う人は、この世でもあの世でも安楽に臥す
中村 元訳(岩波書店)『ダンマパダ』、168、169


 自ら為した行為はいつか必ず自ら受ける。どんな事情にあっても、どんな環境にあっても、善を為したものは善の果を。悪を為したものは悪の果を。ゆえに人のため世のため生きよ。善きことをせよ。
 これがお釈迦さまが説かれた実存的『業の法則』です。またこれが仏教の根本『慈悲』・『利他』の原点でもあり、哲学者たちが指摘する合理的な『利己』でもあります。


お釈迦さまの教え
転生するが輪廻はしない。
来世は永久に幸なる世界、浄土へ。



 バラモン教が説く永遠不変な物理的『霊』と宿命的、運命的『業』を否定したお釈迦さまは、人々の悩み苦しみのひとつ、輪廻転生について次のように説かれました。

  心が煩悩に汚れないで、(霊と業の)実体について固執を断ち切った修行者にとっては、
  生まれを繰り返す輪廻が滅びている。

  生存に対する妄執を滅ぼし、(霊と業の)実体について固執を断ち切った修行者にとっては、
  生まれを繰り返す輪廻が滅びている。

  心が永久に静まり、(霊と業の)実体について固執を断ち切った修行者にとっては、
  生まれを繰り返す輪廻が滅びている。
  この人は悪魔の絆から解きほぐされている。
  この人は、今や迷いの生存を繰り返すことはない。
中村 元訳(岩波書店)『ウダーナヴァルガ』第32章・修行僧より

 端的に言うと、我々は転生はするが輪廻はしない。そこで、「真理を悟り、霊が存在するという固執、そして今の人生が前世の業によるという妄執を断ち切れ。そして中道=聖八正道を歩みニルバーナに達し、来世は聖なるブッダと成って、永遠に輪廻なき『永久に幸なる世界(漢訳・極楽浄土)に転生(往生)せよ」。
 また、「善きことをせよ。ならばニルバーナに達し、来世は聖なるブッダと成って、永遠に輪廻なき『永久に幸なる世界(漢訳・極楽浄土)』に転生(往生)できる」。これが仏教の根本、お釈迦さまの教えです。

 その転生について、お釈迦さまの弟子、僧団の長老たちは次のような譬えをもって人々に語っております。
 『転生とは、牛乳がらく(ヨーグルト)になり、酪が生蘇しょうそ(フレッシュバター)になり、生蘇から醍醐(だいご)(チーズ)になるようなものである。このように、行為によって、また因縁によって、しかも一方が他方に寄りかかって持続し、つぎに生まれる。決して永遠不変な主体が転生するものではない。』

 仮にバラモン教のように物理的、主体的、不変的な霊(アートマン)が輪廻転生し、この世に再生したとするならば、当然のこと私たちは己の前世を知っているはずです。
 しかし、己の前世を知る者は誰もいません。仮に知っていると言う人がいたとしても、それを科学的に証明できる人はいません。
 ゆえに永遠不変な霊は存在しない。転生するのは永遠不変なる主体、霊(アートマン)ではない。 人間は死と同時に、人間を形成している実態は『空』となった後、全く別な『有』に再生し転生する。その『有』は聖なるブッダでなければならない。そこで、仏道に励み、『永久に幸なる世界(漢訳・極楽浄土)に転生しよう。これがお釈迦さまの教え、すなわち仏教です。

 ところが、お釈迦様の入滅から約500年後に誕生した大乗仏教は、お釈迦さまを神格化するためにバラモン教が説く輪廻転生を取り入れ、お釈迦様は前世の善業によってこの世にブッダとして降誕したとしました。つまり、この世で修業して、真理を悟りブッダに成られたのではないと。
 そして出家せずとも、在家のまま善業を積み、来世はその因果によってブッダに成る教義、教典を創成し仏教を大衆化しました。日本の仏教は今もこの流れにあります。



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