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仏教の根本は『慈悲』

 仏教はすべての人々をその悩み苦しみから救いたいという、お釈迦さまの無量なる慈しみと悲れみから生まれました。
 そして、宇宙の真理と人間はどう生きてどう死ぬべきかの道理を悟ったお釈迦さまが説かれたことは、その真理とその道理を悟り、ご自身のように無量なる慈しみと悲れみに溢れたブッダに成れということでした。ゆえに、仏教の根本は「慈悲」とします。

 お釈迦さまの入滅から約500年を経た紀元2世紀頃、仏教はインド全域に流布し栄華を極め、その結果、僧侶たちはエリート化して遊行もせずに僧院に住み、空観をはじめとする難解な観念論を振り回しながら奢侈な生活の日々を過ごしていました。大衆はこれを批判し、仏教離れが進みました。
 このとき、高僧ナーガールジュナ(漢訳・竜樹)はお釈迦様の教えの根本に立ち、僧侶たちにつぎのように説き、仏教の改革に取り組みました。

  仏教の根本は慈悲なり。
  空を証知(悟る)するのも、慈しみと悲れみに溢れたブッダに成るためのものである。
『中観』より


 こうしてナーガールジュナは出家しなくとも在家のままで仏道、すなわち慈悲の実践に励むことによってブッダに成れるとする大乗仏教を誕生させました。
 爾来、小釈迦とも称され、中国や我が国では大乗仏教八宗の祖として崇められています。

 「慈悲」はサンスクリット語マイトリー(慈しみの意味)と、カルナ(悲れみの意味)を合わせた言葉です。
 「慈しみ」とは、一切の生きとし生きるものが安楽であれ、幸せであれと願うこと。また、一切の生きとし生きるものの幸せと安楽を共に喜ぶこと。また、他者に利益や安楽を与えることです。時には父の愛にたとえることもあります。
 「悲れみ」とは、一切の生きとし生きるものが苦しみ、悲しみから逃れられますように、除去されるようにと願うこと。また、一切の生きとし生きるもの苦しみに同情して苦を取り払ってやろうと思いやること。また、その苦しみを共に悲しむこと。他者の苦しみ悲しみを除いてやることです。時には、母の愛にたとえられることもあります。
 これを中国では単略して、慈しみは「与楽」、悲れみは「抜苦」のこととし、これを受けて我が国の弘法大師空海は『仏心は慈と悲なり。大慈はすなわち楽を与え、大悲はすなわち苦を抜く。抜苦は軽重を問うことなく、与楽は親疎を論ぜず』と述べています。(性霊集)。
 お釈迦さまはこの慈しみ、悲れみに、限りがあってはならない。無量であれと次のように説いています。

     あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、
     そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、
     無量の慈しみの意を起こすべし。
     上に、下に、また横に、障害なく、怨みなく、敵意なき慈しみを行なうべし。
     全世界に対して、無量の慈しみの意を起こすべし。
     立ちつつも、歩みつつも、臥しつつも、眠らないでいる限り、
     この慈しみの心づかいをしっかりたもて。
     この世ではこの状態を崇高な境地と呼ぶ。
     一切の生きとし生けるものは、幸せであれ、安穏であれ、安楽であれ
(中村元訳)


 慈悲は無量でなければならないゆえに、お釈迦様はつぎのように説きます。

     実にこの世においてはうらみにむくいるに、怨みをもってしたならば、
     ついに怨みのむことがない。怨みをすててこそむ。
     これは永遠の真理である。
中村 元訳(岩波書店)『ダンマパダ』5


 お釈迦さまが説く慈悲は怨みや憎しみを捨てること、許すことでもあります。許すことは許されることであるからです。
 それゆえ仏教には『ほとけ』が悪人を罰するという思想、仏罰ぶつばつはありません。罰は『業の法則』、『自然の法則』として自らが負う。これが仏教です。
 とはいっても、時には『ほとけ』に使える天界の菩薩や神々が、煩悩にまみえる人を救うために下ろす罰があります。
 それを「方便ほうべん」といいます。仏教における「方便」は人を救う方法のことをいいます。決して、ウソをいって人をだますことでもありません。
 このようにお釈迦様が説く慈悲はあまりにも崇高です。だから中国では仏教を指して、それは『宗教』であると定義したのです。



キリスト教の根本は「愛」 

 ご周知のように、キリスト教は神の「愛」を根本とします。そしてキリストは「隣人を愛せ」、「敵を愛せ」と博愛を説いています。
 中村元曰く、でも、その神の愛は異端者(神を信じない者、三位一体を信じない人)を許容せずに罰します。そしてその愛は人間以外の生きものには振り向けられていません。
 イスラム教も、アラーは国や民族、そして地位や性別に関係なく、あらゆる人に慈愛を与えるとし、他の宗教を信じる者も許容せよと説いています。しかし、アラーを貶す者、批判する者は許しません。罰します。また、同じ神(アラー=ヤハウェ)を信じる者同士で正義をめぐり、いまだに殺し合いをしています。
 キリスト教徒、イスラム教徒に限らず、人は誰でも自分と同じ考えでなければ愛せません。また、自分を受け入れない相手も、美しくない相手も愛せません。それは花に対しても、動物に対しても同様です。
 それゆえ、かの哲学者ニーチェは『愛のなかには、つねにいくぶんかの狂気がある(『ツアトウストラ』氷上英廣訳)と述べています。


では、「愛」についてお釈迦さまは

 キリスト教と違い、仏教は、「愛」は煩悩のもととします。つまり、「愛」はすべてではありません。
 お釈迦さまは次のように説いています。

     愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。
     愛するものから離れたならば、憂いは存在しない。
     どうして恐れることがあろうか?
中村 元訳『ダンマ・パダ』愛するもの212、213


     愛執は苦しみの根源であると、この危ない患いを知って
     愛欲を離れ、執着して取ることなく、
     修行僧は気をつけなけながら遍歴すべきである。
中村 元訳『ウダーナヴァルガ』愛執18


 仏教は、愛を親子・兄弟・親族間の愛を「親愛」、友人間の愛を「友愛」、男女間の愛を「恋愛」、そして民族の違い、国の違い、思想の違いに関係なく広く広く愛する愛を「博愛」、それに「自己愛」の5つに分類します。
 そして、これらの愛に飢えた状態を「渇愛」、欲望に燃えた状態を「欲愛」と呼び、愛は自我的で執着的なもの。それゆえ、愛は「迷い」、「苦しみ」、「煩悩」のもとであるとしました。

 しかし、お釈迦様は愛を否定したわけではありません。コーサラ国のパセーナディ王の問いに次のように説いています。

     「世尊よ。今日、私はふと王妃に、この世に自分より愛しいものがあるだろうかと、問うてみた。王妃は自分より   愛しいものは考えられぬと答えた。私も自分よりもさらに愛しいものが考えられなかった。
     このことはいかがであろうか。」
     世尊は深く首肯き、つぎのように答えました。
     「人の思いは何処へも行くことができる。されど、人は何処へ行こうとも、己より愛しきものは見いだすことを   得ない。それと同じように、すべて他の人々も、自己はこのうえもなく愛しい。されば、己が愛しいと知るものは、他のものを害してはならない。」
(増谷文雄訳・『相応部経典』3・8)




「愛」の原点は、自他同事

 愛は自我的なものである。従って最も愛しいのは自分である。それゆえ、己を愛するように人を愛せ。また自分にイヤなことは他のものにしてはならない。これを仏教は「自他同事」といいます。
 そこで、お釈迦さまは次のように説きました。

     すべてのものは暴力におびえている。
     すべての生きものにとって命が愛しい。
     己が身にひきくらべて殺してはならぬ。
     殺さしめてはならぬ。
中村 元訳(岩波書店)『ウダーナヴァルガ』愛するもの19


 この『自他同事』は『愛』の原点であり、また、人間ばかりではなく生きとし生きるものすべてを対象とする『慈悲』の原点でもあります。

 今、殺し合いや暴力がテレビやマンガ、映画などに溢れています。それを日常的に見ている子供たちは暴力も人を殺すのも悪いことだと思っていないといい、学校でのイジメ問題の一因になっているようです。
 親や教師は、懸命に命の尊さと愛を語り諭すけれど、なかなか理解してもらえないと嘆いていると聞きました。
 そこで、このお釈迦さまの説く『自他同事』を子供たちに語って欲しいものです。ならば、子供のイジメ問題も半減するに違いありません。



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