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シャカムニ・ブッダのことば
万物は空

中村 元訳『ダンマパダ』第20章・道229

「一切の形成されたものは空である」と、
明らかな智慧をもって観るときに、
人は苦しみから離れる。
これこそが人が明らかになる道である。

果たして霊は?
今も活躍している霊媒師たち


 世界には霊と交流できるという人が何人もいて、新興宗教を立ち上げたり、またテレビやマスコミ等に登場して話題をさらいそのたびにブームを引き起こしています。それは霊の存在を期待している人が多いから、また物事を霊のせいにしたい人が多いからと科学者たちは言っています。

 平成20年2月5日付朝日新聞朝刊は、そうした安易なスピリチュアル番組に「霊能番組ブームに懸念」と題し問題にしました。というのも、そのようなテレビ報道に乗じて、悪霊がついているなどと言って人を不安がらせ、その悪霊を祓ってやるなどと言って高額な報酬を要求する妖しげな霊媒師による被害があとを絶たないためです。
 しかも、このような被害に遭うの人はいつも、心や身体や家族に不安、不幸を抱えている人、また霊の存在を信じている無明な人たちです。

 不思議なことに、霊と交流できるという人は霊の存在を信じ、霊と交流したいと思っている人としか交流できません。霊の存在を信じていない人とは交流出来ないのです。  霊の存在を信じていない人との間では、死んでもいない人の霊を呼び出して託宣をしたという話もあります。
 また、自らは○〇の生まれ変わりと称して色んな歴史的人物の霊と交流し、託宣している教祖(=霊媒師)がいます。
 ○〇の生まれ変わりとするならばDNAは?また、霊はDNAと関係ないとするならばその霊は生まれる前、母方にいたのか?父方にいたのか?それとも空中を浮遊していて生まれる寸前に母方の体内に侵入し、この世に生誕したのか?それを科学的に証明して欲しいものです。
 でも未だ、それについて私たちが納得できる説明はありません。しかしそれを信じている人たちは頑なで、しかも排他的です。

 よく考えてみてください。仮に霊と交流できるならば殺人事件の解決はいとも簡単です。被害者の霊に誰に殺されたか。なぜ殺されたかを聞けば済むことです。
 しかし、それができる霊媒師がいたという話はこれまで一切ありません。
 また、霊を見たという人の話しも、それは人影であったり、面影であったり、足音や物音であったり、火の玉であったりでさまざまです。どんな姿で、どんな顔で、誰々の霊というようにハッキリしたものではありません。
 しかもそれを見たのは夜または寂しく薄暗い場所がほとんどで、なぜか明るい場所や人々が大勢いる場所ではありません。でも見たという人は、それは「霊」だと信じています。
「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」という諺もあるのですが・・・。


では、霊とは

 広辞苑は「霊とは@肉体に宿り、または肉体を離れて存在するものと考えられる精神的実体。たましい。たま。Aはかり知ることのできない力のあること。目には見えない不思議な力のあること。また、その本体。B尊いこと。恩恵。」
 そして「霊魂とは@肉体のほかに、別に精神的実体として存するもの。たましい。A人間の体内にあって、その精神・生命を支配すると考えられている人格的・日肉体的な存在。病気や死は霊魂が身体から遊離した状態であるとみなされる場合が多く、また霊媒によって他人に憑依しうるものと考えられている。性格の異なる複数の霊魂の存在を認めたり、動植物にも霊魂が存在するとみなしたりする民族もある。」と解説しています。

 ちなみに、日本の神道は八百万(やおよろず)の神と言って森羅万象すべてに神が宿り、神の霊が存在するとします。そしてその祟りを恐れ、鎮めるために様々な祭祀を行なっています。
 キリスト教はキリストを信じる者の魂(たましい)=霊は死後「主」のもと(天国)に行き、信じない者の霊魂は死後「黄泉(よみ)=シオール」の世界に行く。そして「終わりの日(最後の審判の日)」に信じる者の霊魂は栄光の体に復活して新しい天と、新しい地に。不信者の魂(=悪霊)は白い御座の裁きを受け、燃える火の池に行くとします。  他の宗教も殆どが「人間の体内には霊が存在し、それが死と同時に体内から離れ、来世に転生する。」とし、霊なくしては死後の不滅はなく、霊なくしてはこの世における行為の成果、天国への再生、地獄への刑罰はないというものです。
 そしてバラモン教は、『霊』は生命の究極として、永遠不変なものとして体内に存在する実体で、その『霊』がその人の『業』によって、前世から現世、そして来世を永遠に「輪廻転生」するとしていました。
 そのバラモン教の教えに対し、お釈迦さまは次のように説きました。




お釈迦さまの教え、
霊、それは迷い、煩悩のもと。執らわれるな!


 お釈迦さまが発見した絶対真理は、@万物はすべて縁によって生起し、縁によって消滅するという『縁起の理法』。A縁によって形成されたものはすべて永遠不変ではないという『諸行無常』。B縁によって形成されたものはすべて無常、ゆえにすべて永遠不変ではない、『空』であるという『諸法無我』です。
 これをもとにお釈迦さまは、人間を形成しているのはしき(肉体)と、じゅ(感受作用)・そう(表象作用)・ぎょう(意志作用)・しき(認識作用)の心である。その『色』も、『受』『想』『行』『識』の心も、すべて『空(くう)』であると説きました。  つまり、お釈迦さまは人間を形成しているものの中に、バラモン教が生命の究極的な存在と説く『霊』を入れていません。『縁起の理法』、『諸行無常』、『諸法無我』の真理は霊の存在を否定するからです。
 でも、お釈迦さまは人々に『霊』の有無を訊ねられると、いつも肯定も否定もせずに次のように答えました。

シャカムニ・ブッダのことば
霊の有無に執らわれるな

中村 元訳『ウダーナヴァルガ』第15章・念をおちつけてより

もしもある人にとって、身体について真相を念おもうことが、
つねに完全に確立したならば、
そのアートマン(霊)という迷いは存在しないであろう。
「わがもの」という迷いも存在しないだろう。
そのアートマン(霊)という迷いはあらわれないだろう。
この人は種々の念いに順次に住するから
やがて時が来れば執著の流れを超えるだろう


シャカムニ・ブッダのことば
世界はすべて空

中村 元訳『スッタニパーダ』1121

つねによく気をつけ、アートマン(霊)に固執する見解をうち破って、
世界を空なりと観ぜよ。
そうすれば、死を乗り越えることができるだろう。


 これについて仏教学者中村元博士は「バラモン教が説く霊を固く信じ切っている人たちに霊が無いといえば有るという議論となる。それは迷い、煩悩のもと。従って霊の有無に執らわれてはならない。そこでお釈迦さまは、霊の有無に記しを示さずに、そのように執着した我(アートマン)を否定したのである。でも、お釈迦さまは行為の拠りどころとしては認めていた。」と述べています。

行為の拠りどころとは人生を心豊かに、心安らかに生きるため、また人を正しい道、幸せな道に導くための行為ということです。
 私もそうですが、本当に困ったとき、苦しいときは神様仏様です。そして、何か良いことがあったときは、それは神様、仏様、ご先祖様のお陰と感謝の祈りを捧げています。  ちなみにお釈迦さまが発見した真理をもとに無霊魂を根本とするスリランカやタイなどの部派仏教徒(小乗仏教徒)も、行為の拠りどころととして霊の存在を認め、神仏に祈りを捧げています。



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